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Web magazine“Present” 広報誌「Present」Web版

2021年9月号掲載

終生癒えることのない長男との別れの哀しみ。たくさんの思い出と温かい人達を遺してくれた

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お客様プロフィール

夫(64歳 会社員) 
Hさま(59歳 会社員) 
長男(享年31歳) 
次男(33歳 会社員) 
長女(31歳 会社員)

末期の舌がんが31歳の命を奪った

今回ご登場いただくお客様は、長野県在住のHさまです。4年前の秋、Hさまのご長男様は31歳の若さでご逝去。筆舌に尽くしがたい悲しいお別れでした。

「亡くなる1年前にステージ2の舌がんが見つかりましたが、手術後、早期に仕事復帰できました。ところが、半年後に再発。すでに末期の状態でした」

ご長男様は、大学院を卒業してから中学校の講師をしていました。発病したときの勤務先は、2つめの中学校でした。

ジブラルタ生命長野支社中野営業所の小川文子(おがわ ふみこ)さんにお話を伺いました。

「ご長男様は、最初に勤務された中学校で教職員専用の生命保険に加入しました。担当者が退職し、私は5年前に初めてお会いしました。そのとき、教師への夢を熱く語っていただき、誠実なお人柄が印象的でした」

ご長男様の発病は、小川さんと初めて会ってから数ヵ月後のことでした。

「夏休み以降お会いできないまま、病気のため退職されたということを伺い、生命保険の継続手続きをすることになりました」

Hさまにお話を伺いました。

「『教職員だけが加入できる生命保険があるんだよ』と話していましたが、詳しくは知りませんでした。亡くなってから説明を受け、夫は涙ながらに『親に生命保険を遺すなんて』と怒っていました」

小川さんにお話を伺いました。

「亡くなられたことを知ったのは、ご葬儀後でした。私は担当を外れていましたが、子どもを持つ身として、人ごととは思えず、ご焼香に伺いました」

Hさまにお話を伺いました。

「悲しみのどん底にいた私は、同世代の小川さんの温かい気遣いや心のこもったお話に癒されました」

小川さんは、今でも月命日に必ずご焼香に訪れています。Hさまにお話を伺いました。

「子どもに先立たれた哀しみは、終生癒えることはないでしょう。小川さんの協力のもと、長男の遺志を継ぐために、学校や病院に寄附をしました」

Hさまご家族のこれまでの道のりと生命保険への思いをお伺いし、小川さんのお話を交えて、ここに紹介させていただきます。

「野球部の監督になって生徒達と甲子園に行きたい」

ご長男様の夢は、高校教師でした。

「小学生の時から、野球が大好きでした。残念ながら、足のケガが原因で高校では活躍できませんでした。大学では野球部のマネジャーを務めていました。常々、高校教師になって野球部の監督をして、生徒たちと甲子園の土を踏むことが夢と語っていました」

大学卒業後、お父様と恩師の勧めもあり、教員を養成する大学院に進学。全国から集まった志を同じくする仲間たちと充実したキャンパスライフを過ごしていました。

「経済的に親に甘えず、奨学金とアルバイト代で学費をまかなっていました。たくさんの友人たちと刺激的な日々を送っていたようですが、教員採用試験は残念な結果でした」

長野県の教員採用試験の競争率は高く、一発合格を勝ちとれる人はごく一握り。ご長男様は「次こそ合格する!」と、非正規雇用の講師として働きながら、再チャレンジの道を選びました。

「はじめて勤務したのは、自宅から通える中学校だったので、久しぶりに家族の元に帰ってきました。私は内心うれしかったのですが、残業も休日出勤もいとわない働きぶりで、家にいる時間は少なかったです。『先輩の教師に囲まれ、やりがいがある』と張り切っていました」

しかし、多忙な仕事と採用試験準備の両立は想像以上に大変だったようです。3年間の講師期限中も合格は困難でした。次に遠方にある中学校から声がかかり、自宅から通えず、宿舎に引っ越しました。

「新生活を始めてからしばらくして、電話で『のどの痛みがとれないんだよね』と言っていたのが、気になりました。そして、夏休みに帰宅したとき、『口内炎が治らない』と言うので口の中を見たところ、口内炎だけではなく、舌にひどい亀裂が入っていてびっくりしました」

Hさまはただごとではないと察知し、すぐに一緒に病院に向かいました。

「息子さんの死を覚悟してください」と告げられた

「医師はひと目でがんだと分かったようです。精密検査の結果、ステージ2の舌がんと確定され、手術日候補を挙げられました。長男は、新学期に間に合わせたい一心でその場で手術日を決定。家族で話し合うこともセカンドオピニオンをとることもできませんでした」

9月に行われた手術は腫瘍を切除して、太ももの肉を移植するもの。手術は無事成功し、心配していた教師にとって必要な発語や発声などの後遺症もまったくありませんでした。

「転移もなく、術後の抗がん剤治療は必要がないと言われ、私たち家族は心の底から安心しました。長男は、10月半ばに仕事へ復帰でき、喜んでいました。術後の2週間に1回の通院も周りの先生達の協力で無事に続けられました」

術後の経過観察では、毎回「順調」と言われ、ご長男様は以前にも増して仕事にまい進していたのですが、新年を迎えたあたりから、Hさまに「口がうまく開かなくなった」と電話でこぼすようになりました。

「医師からは年末のCT検査結果は良好だったから、様子を見ましょうと言われるばかり。長男は『仕事をしているときは平気だよ』と言っていましたが、私の胸騒ぎは治まりませんでした。2ヵ月後にやっと受けられたMRI検査の結果は、末期の舌がん。言葉を失いました」

大学病院に転院することになり、ご長男様は、医師に「3年生の受験があるので早く仕事に復帰したい」と強く訴えました。そして、すぐに放射線治療のスケジュールが決まりました。ところが、Hさまには、医師から「息子さんの死を覚悟してください」と告げられたのです。

「校長先生に、息子は復職できないと連絡しました。すると、心苦しいが代わりの教師をすぐに依頼するためには、退職届が必要だと言われました」

ご長男様は冷静に受け止め、「生徒たちのために、今すぐ退職届を出すことが僕の仕事だ」と提出したのです。

小川さんにお話を伺いました。

「私は当時、ご長男様の退職理由は知りませんでした。加入されている保険は、教師を辞めても継続できますが、ご長男様にお会いできないまま郵送で継続のお手続きをして、担当を外れました」

長男の遺志を汲み取って学校や病院などに寄附

放射線治療の副作用は、厳しいものでした。

「食事が口からとれなくなって、栄養を補給するために腹部に穴を開けてチューブを設置する胃ろうになりました。声帯への影響で会話もできません。頭がしっかりしている分、本人の苦痛は計り知れなかったと思います」

病室には、小学校からの友人達が頻繁に訪れ、支えてくれました。大学院時代の友人達も全国から駆けつけ、ラインでの励ましがずっと続いていたそうです。「だんだんとテレビを観ることも、音楽を聴くことも苦痛になっていきましたが、高校野球だけは頑張って観ていました」

亡くなる1ヵ月前からご両親は交代で病院に泊り込みました。ご家族に看取られて、短い生涯を終えたご長男様。ご葬儀には、最寄り駅から弔問客が長蛇の列をつくりました。

大学院時代の有志が催した「偲ぶ会」には、大勢の仲間だけでなく教授も参加し、Hさまにご長男様の在りし日のいきいきとした表情を伝えてくれました。

中学校の教え子達は、今でも高校の卒業や大学合格などを、ご仏壇に報告に来てくれるそうです。

「多くの方たちから愛されたり慕われたりしていたことがわかりました。すごいスピードで駆け抜けた人生でしたが、いろいろな思い出や様々な人たちとの関係を遺してくれました」

小川さんもその1人です。

「月命日は、夫婦共に仕事を半日休みます。夕方には、小川さんが白い花を持って焼香に来てくださいます。もう4年続いています。小川さんのサポートで長男の生命保険の一部を、彼の遺志を汲み取って、学校や病院などに寄附できました。また、私は素人ながら長男の闘病記を書いたのですが、小川さんのご尽力で、すでに転勤された先生たちにも贈ることができました」

最後に小川さんにお話を伺いました。

「お子様に先立たれることは、言葉にできないほどつらく悲しいことです。ご長男様のことをいつまでも忘れないことが大切だと思い、毎月お祈りさせていただいております。今では、家族ぐるみのお付き合いに発展しました。この出会いはご長男様が結んでくれたことです。これからも月命日のご焼香は続けていきます」

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